
[ハワイライフ実現者インタビュー]
Yasuki Inoue / 井上 康紀
元 ハワイ州観光局 ハワイスペシャリスト上級(2020年取得)
取材・執筆:WAAP編集部/写真提供:井上 康紀
「トリスを飲んでハワイへ行こう」──1961年、12歳の少年がテレビCMで見た南の島は、その後の人生を決めた。井上康紀さん、77歳。福岡で生まれ、いまは横浜に暮らす。ハワイへ渡ったのは25回。移住はしていない。それでもハワイ王国の歴史を調べ、講演し、ウクレレを弾き続けてきた。65年かけてたどり着いた場所を聞いた。
1. 一本のテレビCMから始まった憧れ
1961年、井上さんは12歳だった。小学6年生である。家のテレビに流れていたのは、一本のウイスキーのCMだった。「トリスを飲んでハワイへ行こう。」
高度経済成長が始まった時代。海外旅行はまだ誰もが気軽に行けるものではなく、ハワイは多くの日本人にとって、画面の向こうにある楽園だった。
「テレビの中のハワイは、とにかくキラキラしていましたね。フラダンサーがいて、ダイヤモンドヘッドがあって、波に乗るサーファーたちがいて、ヤシの木が揺れていて……。『なんて素敵な場所なんだろう』と思ったのを、今でも覚えています。」
その小さな憧れが、65年続く物語の始まりだった。

ホノルル空港に描かれたハワイ諸島の絵。憧れは、こうした一枚の絵から始まった
2. 弥生式土器と、ウクレレと
中学生になった井上さんは、思いがけない形で歴史と出会う。福岡県の夜須中学校。講堂前の校庭で雑草取りをしていた時、手に触れたのは弥生式土器のかけらだった。そこから古代史にのめり込み、高校では史学部に入って発掘に熱中する。その興味は、やがて火山によって生まれた島へ向かった。
「ハワイは火山でできた島でしょう。だから火山にも興味を持ちましたし、『アロハ・オエ』は誰が作った歌なんだろう、と調べたりもしていました。」まだ一度もハワイへ行ったことはない。それでも興味は、景色から歴史や文化へと広がっていった。
16歳の時、父方の親戚がハワイへ移住していたことを知る。帰国したその親戚と初めて会った日のことを、井上さんは今でも鮮明に覚えている。「同じ日本人なのに、外国人みたいだったんですよ。子どもながらに、『ハワイに住むと、こんな雰囲気になるんだ』と思いました。」
進学した西南学院大学では経済学部に籍を置きながら、軽音楽同好会のハワイアンバンドに入った。「本当はギターがやりたかったんですが、最初はウクレレから始めました。」昭和30年代から40年代にかけて、日本は第一次ハワイブームの只中にあった。街にはハワイアン音楽が流れていた。「今思えば、あの頃から私の興味は全部ハワイにつながっていたんでしょうね。」

学生時代のバンド。KBCテレビ「ティータイムショー」に出演した時の記念写真
3. 32年間の外食産業と、34歳の初ハワイ
1971年、井上さんは地元・福岡のロイヤル株式会社に入社する。きっかけは新聞記事だった。「アメリカの新しいレストラン文化を日本へ持ち込もうとしている会社だと知って、『この会社で働きたい』と思いました。」
周囲からは反対の声もあった。それでも決意は変わらなかった。「父からは、『自分の好きなようにやれ』と言われました。その言葉が背中を押してくれました。」皿洗い、バスボーイ、ウェイター。現場を経験し、25歳で店長に抜擢される。33歳からは海外視察の企画と引率を任され、カリフォルニアを皮切りにアメリカ西海岸へ8回、ニューヨークへ4回、フランスへ1回。世界の外食文化を自分の目で確かめ続けた。「私にとって、新しいヒントはいつも海外にありました。」
そして1983年、34歳。井上さんはついにハワイの地を踏む。少年時代に憧れてから、22年が経っていた。迎えてくれたのは、16歳の時に一度会ったあの親戚だった。H1フリーウェイからハレイワへ抜け、帰りはオアフ島の東海岸を走る。左手には青い海、右手にはコーラウ山脈。観光地を巡るのではなく、そこに暮らす人の車で、暮らしの延長にある道を走った。井上さんにとって最初のハワイは、旅行のハワイではなかった。
ロイヤルでの在籍は32年に及び、2003年、54歳で退職する。「仕事は飲食業でしたが、その根っこには、ずっとアメリカやハワイへの興味があったんでしょうね。」

マジック・アイランドから望むダイヤモンドヘッド。初めてこの島に立ったのは1983年だった
4. 「アロハ・オエ」は、なぜ別れの曲になったのか
中学生の頃に抱いた「この歌は誰が作ったのか」という疑問に、井上さんが本当の意味で答えを見つけたのは、ずっと後のことだった。2023年、井上さんはコーラウ山脈を越えて、オアフ島の東側にあるマウナウィリという集落を訪ねた。目当ては一本の道路標識である。
Aloha 'Oe Dr.
西を見れば三角のピークを持つオロマナ山。すぐ目の前には、風雨に削られた山肌が迫っている。1878年、この場所に三人が馬でやってきた。ハワイ王国のリリウオカラニ王女、当時40歳。その妹のリケリケ王女。そして王女の腹心であったボイド大佐。大佐の実家は、この土地で牧場を営んでいた。
ホノルルへ戻ろうとした時のことだった。カネオヘ湾に沈んでいく光を眺めていたリリウオカラニの目に、ある光景が映る。別れを惜しむ大佐と、牧場の少女。何とも言えない抱擁だった。そのワンシーンに強く心を動かされたリリウオカラニは、馬上でメロディを口ずさみ始める。浮かんだ歌詞を当てはめていくうちに、ホノルルに着いた時には歌が完成していた。
ハワイ州立公文書館には、リリウオカラニ自筆の手稿が残っている。1878年付。彼女自身の書き込みには、こうある。
Composed at Maunawili 1878. Played by the Royal Hawaiian Band in San Francisco August 1883 and became very popular. (1878年、マウナウィリにて作曲。1883年8月にロイヤルハワイアン・バンドがサンフランシスコで演奏し、たいへん人気が出た)
サンフランシスコ公演で好評を得た曲は全米へ広まり、翌1884年に楽譜が発表された。だが、この歌が「別れの曲」として定着したのは、作者の意図とは別の理由による。1891年、カラカウア王が没する。その追悼式で、ロイヤルハワイアン・バンドが「アロハ・オエ」を演奏した。「それまではリリウ自身、『ラブソングを作ったのに!』と言っていたそうです。」
しかし1893年、ハワイ王国は滅亡する。歴史に直面した人々は、その悲しみをこの歌に投影した。恋人たちの別れを歌ったはずの旋律は、失われた国への挽歌になった。「アロハ・オエ」を歌うとき、ハワイの人々が何を思っているのか。標識の下に立った井上さんが見ていたのは、そういう時間の重なりだった。

マウナウィリに立つ「Aloha 'Oe Dr.」の標識。背後は三角のピークを持つオロマナ山(2023年)

イオラニ宮殿前で演奏するロイヤルハワイアン・バンド。1883年にサンフランシスコで「アロハ・オエ」を広め、1891年のカラカウア王追悼式でも演奏した楽団は、いまもここで音を鳴らしている
5. 「好き」から「学ぶ」へ──61歳からの王国研究
2003年に退職した井上さんは、飲食コンサルタントとして独立する。ウクレレ教室を始めたのは2010年。きっかけは、ある夏の日に見た光景だった。「暑い日に、ウクレレを持ったシニアの女性が近所を歩いているのを見たんです。」団地の集会場を借りて、こじんまりと始めた。多い時で12名。2025年まで、15年続けた。
同じ2010年、61歳の井上さんはハワイ王国と王族について本格的に調べ始める。ハワイアンソングの源流を辿ろうと決めたのだ。「一人ひとりの王族が生きた時代のことを知ると、愛おしい気持ちが芽生えました。」調べるほどに発見があった。王族と関係のある曲を探すと、高校生のコーラスがYouTubeにすべて上がっていた。「つまりハワイでは、幼少期から音楽を大切にしてきた文化が、脈々と受け継がれてきていたんです。」
2016年頃には、ハワイの行きつけの店で『The Queen's Songbook』を手に入れる。リリウオカラニ女王の楽曲40曲の楽譜と当時の写真、解説を収めた本で、重さは1.5キロある。「お宝です。嬉しかったですね。」
2020年、コロナ禍と同時にハワイ州観光局のアロハプログラム「ハワイスペシャリスト」上級を取得した。「ハワイの細かい知識が頭に入って、ハワイ旅の内容が深まり、濃いものに変化しました。」その成果が形になったのが2023年である。渋谷ヒカリエで開かれたハワイ州観光局主催の「ハワイ・エキスポ2023」。会場には400名ほどが集まっていた。じゃんけんから始まったクイズ大会は100名ほどが参加し、残り10名でステージに上がる。
最後の問題は「ハワイアンキルトでタブーの色は?」だった。「知らなかったんですが、黒は見たことがなかったので、私だけ黒と答えました。」それで優勝した。出題者は『メレ旅』の著者、吉見大介氏。実は2019年秋、東京でのセミナーの後にハワイの王家の霊廟でばったり会い、挨拶を交わした相手だった。

マウナ・アラ(王家の霊廟)。2019年秋、ここで『メレ旅』著者の吉見大介氏とばったり出会った
6. 誰も知らなかった「シャカの起源」
2026年6月、井上さんはハワイにいた。ザ・ウィンザー最上階でのバーベキューパーティ。同じテーブルを囲んだのは、ハワイ歴40年の方、日本から来た80歳のベテラン、40代の二人、そして井上さんの五人だった。雑談の途中、井上さんは何気なく尋ねた。皆さんは「シャカの起源」をご存じですよね、と。誰も知らなかった。
話し始めると、全員の目つきが変わった。前のめりになり、一つひとつ頷きながら聞き入る。翌日、ホノルルの日本国総領事館を表敬訪問した後のテラスでも、移住歴50年、40年、30年という人たちに同じ話をした。反応は、まったく同じだった。
1940年代、オアフ島北東部ライエの町に、ハマナ・カリリという人がいた。教会の讃美歌の指揮者だった彼は、補修費用を捻出するためカフク・シュガーミルで働いていた。ある日、サトウキビを圧搾するローラーに手を巻き込まれ、右手の中央三本の指を失う。残ったのは親指と小指だけだった。作業ができなくなった彼に与えられたのは、シュガートレインの見張り役だった。いたずらで貨車に飛び乗ってくる子どもたちを、注意する仕事である。
「危ないから乗らないで! ダメだよ! 降りて!」三本指のない右手を挙げて、彼は何度も叫んだ。その手の形を、子どもたちが真似をした。それが評判になり、新聞記事になった。
1960年代に彼は亡くなる。ちょうど同じ頃、中古車販売会社の社長がテレビCMでその手の形をつくり、「シャカ・ブラー」という意味のない言葉を発した。これが一気に広まる。1970年代にはホノルル市長選で候補者がシャカのポーズをして当選し、決定的だったのは、ハワイ出身のオバマ大統領が就任後にハワイを訪れ、公の場でシャカを掲げたことだった。
2018年、ライエのポリネシアン・カルチャー・センターの入口に、ハマナ・カリリの像が建てられた。井上さんはこれを見に行っている。そして2024年6月、ハワイ州はシャカを州の公式ジェスチャーとする法律を成立させた。公式ジェスチャーを定めた州は、アメリカで初めてである。
「世界に類のないフレンドリーなハンドモーションは、こうやって誕生しました。」「一気に距離が縮まって、友好関係ができました。」長年ハワイに住む人たちも、ハワイが好きな日本人も、誰も知らなかった。知識は、人と人のあいだを縮める。

イズ(イズラエル・カマカヴィヴォオレ)の胸像の前で相楽晴子さんと一緒に。
7. それでも、移住は考えなかった
65年ハワイに惹かれ続け、25回渡航し、王国の歴史を調べ、講演までしてきた人である。移住を考えたことはなかったのか。答えは即答だった。「移住は考えたことはありません。」理由は二つ。バンド活動が忙しかったこと。そして、地元のハワイアン・ファンに寄り添って生活していたことである。
モアナ・アイランダーズを2005年から2019年まで。モアナルアを2015年から現在まで。井上さんの居場所は、ハワイではなく日本のハワイアン・シーンの中にあった。ハワイを愛することと、ハワイに住むことは、井上さんにとって別のことだった。
2023年からは、ボランティアのライブで「ハワイの豆知識トークショー+演奏+フラ」というオリジナルの構成を続けている。講演も8回を数えた。日比谷松本楼のバンケットルームでは、ハワイから5名を含む80名を前にパワーポイントを映し、日本ウクレレ協会では90分話した。伝える相手は、日本にいる。

モアナ・アイランダーズの貸切ライブ。井上さんの居場所は、日本のハワイアン・シーンの中にあった
8. 買い物だけで帰るハワイは、もったいない
井上さんが繰り返し言うことがある。「買い物だけして帰るハワイでは、もったいないと思うんです。絶景を見て、ジャングルを歩いて、ハワイアンミュージックを聴いて、食文化に触れて、王国の歴史を知る。そうすると、ハワイは何倍も面白くなるんですよ。」
その井上さんが今回、初めて足を運んだ場所がある。カカアコのファーマーズマーケットだ。2006年から、KCC、マノア、ヒロ、カイルアコナと島じゅうのマーケットに立ち寄ってきた人である。「その地で採れた産物や加工品が新鮮だから。売っている人たちの心意気を感じられるから。」目当ては LANI'S というブランドの店だった。パラカ柄を使った衣類と雑貨を、ハワイでつくっている。
パラカとは何か。井上さんが説明してくれた。19世紀の終わり頃、英国からの船乗りが着ていた格子柄の長袖シャツが、丈夫で作業に向いているとして、プランテーションの作業着として生産され始めた。昨年ワイパフのプランテーション・ビレッジを訪れた時には、当時のパラカの長袖が機械備品とともに展示されていたという。日本からの移民をはじめ、この島で働いた人々が袖を通していた布である。
2023年、井上さんはパールリッジ・ショッピングセンターでパラカのアロハシャツを手に取った。生地が厚く、その時は買わなかった。代わりにワイキキの生地屋で反物を買い、奥様が長袖のアロハシャツを縫った。以来、家にはホームメイドのシャツと帽子とトートバッグが6点。LANI'S で買ったものが2点。今回もまた、新作デザインの生地を買って帰った。
「パラカのアロハは、ハワイのミュージシャンが大勢着始めています。そのブームは本物になると思います。」王族の歴史を追いかけてきた人が、いま週末のマーケットで、この島で働いた人々の布を手に取っている。

ワイキキのロイヤルグローブホテルで開かれるローカルのウクレレの輪に混ざって
9. これからハワイと関わりたい人へ──3つのアドバイス
移住はしなくても、ハワイと深く関わりたい。そういう人が今日から始められることを、井上さんは三つ挙げた。
1. ハワイアンミュージックを聴く
「有名な歌がたくさんあります。19世紀の古い歌が今も歌われ、そしてフラを踊る。大切な文化遺産だと思っています。」井上さんがハワイ史へ入っていった入口も、音楽だった。
2. ハワイに詳しい人の話を聞き、ハワイ王国の本を読む
推薦書は7冊。『イザベラ・バードのハワイ紀行』(近藤純夫訳)、『侍ボーイとイザベラ・バード』(植松三十里)、『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』(荒俣宏 翻訳・解説)、『ハワイ王国の女王』(猿谷要)、『ハワイ王国 カメハメハからクヒオまで』(矢口祐人)、『旅は道づれアロハ・オエ』(高峰秀子・松山善三)、『メレ旅 上巻・下巻』(吉見大介)。「中古本で十分です。」
3. 王族の銅像巡り
「その人のことを調べると、何をした人なのか興味が生まれます。」たとえばイオラニ宮殿の向かいに立つカメハメハ大王像。建立を発案したのはカラカウア王で、実はあの像は二代目である。しかもモデルは大王本人ではない。調べ始めると、一つの銅像から王国の歴史が立ち上がってくる。

カメハメハ・デーのレイ・ドレーピング。大王像に、島じゅうから集められたレイが掛けられる
そして井上さんが最後に語ったのは、こういうことだった。「アロハという言葉の意味を、ちゃんと知ってほしいんです。」「ハワイの大自然の中で静かに身を置いていると、自然と涙が出てくることがあります。それがマナであり、アロハなんだと思います。」
ハワイとの関わり方は、移住だけではない。学ぶこと、伝えること、そして長く愛し続けること。それもまた、一つの豊かな関わり方である。一本のテレビCMから始まった12歳の憧れは、65年かけて、こういう場所にたどり着いた。
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